「幸福の科学」についての見方
樋田昌志さんが「幸福の科学」についてこんなことを言ってました。
と、ほめていますが、生長の家からすると、どう見えるか。
まず、「幸福の科学」の1994年に出版の「新・太陽の法」の350ページに、
東大教養学部時代(1976年頃)の秋に、たまたま古本屋で買った神想観についての本で神想観をしたことがあるそうだ。
たぶん、この本であるだろう。
神想観は、霊動や物を言ったりして欲しいと思って歓迎していけないとあります。それは、低級霊がなかなか去らないからです。
高級霊は姿勢が正しく低級な格好の霊動はしません。
カビ臭い思想だと感じたのは、以前の霊術の影響と考えられます。なぜなら、神想観は思想ではないからです。
ところが、大川宏洋さんがこんなことを言っています。
生長の家では歓迎していない手を小刻みに動かすような霊動をさせると言っています。それでは低級霊が浮き出すことになります。
つまり、生長の家からすると、幸福の科学の霊言は、低級な教えということになります。
✴️「言霊」と「霊言」とは?
それぞれ、言葉の意味を調べてみると、
デジタル大辞泉
百科事典マイペディア
言霊:言葉に宿る霊の意。古代の日本人は言葉に宿る霊力が,言語表現の内容を現実に実現することがあると信じていた。言霊の信仰によって言葉を積極的に使って言霊をはたらかせようとする考えと,言葉の使用をつつしんだり避けたりする考えとの二つの面がある。日本では和歌において言霊の思想がうけつがれ,のちの時代にまで影響を与えた。
はてなキーワード
「言霊」という言葉は、辞典に載っている。「霊言」という言葉は、普通の辞典には載っていないので、幸福の科学の造語だろう。
✴️大本教では「言霊(ことだま)」の仕組みを「言霊学(げんれいがく)」として学べます。ところが、幸福の科学では撹乱のために、この言葉の前後を逆にした造語「霊言」を作り、一般の日本人に「言霊」の意味を正しく理解させないようにしているのだと思う。
✴️大本教では、小学校にも行っていないし、文字も習ったことがない教祖の出口なおさんに、明治25年旧正月元旦から、「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。‥‥神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ。」などの長文が天下り、自動書記によって莫大な量の長文を書かせたにもかかわらず、日本の最高学府と言われている東大を卒業した幸福の科学の教祖の大川隆法さんには、昭和56年3月23日に、「イイシラセ」を鳥のオウムのように何回も自動書記させ、「ニッコウ」と書かせただけ。
その上、1987年版では、日曜日と書いたが、実際は月曜日だったため、こっそり1994年版では、「私にとっては、とても気分のよい日」と書き換えでいる。
まったくもって信用が置けない幸福の科学である。
1987年
1994年
1981年(昭和56年)酉年[とり年]カレンダー
http://www.benri.com/calendar/1981.html
✴️1987年版と1994年版の顕著な違いは、「神理」が、「仏法真理」に変わっていることである。「神理」は、GLAの教祖高橋信次さんが使っていた言葉である。それが、「神」が消えて「仏法」が入った。1991年9月28日の朝まで生テレビで田原総一郎さんが、幸福の科学の幹部に創価学会から来た人がいると言っている。つまり、創価学会に気に入られるように、教えを変えたということか?
1987年
1994年
✴️また、どちらの本のはしがきにも、少し不自然な文章が書いてある。1987年版では、本人が書いたことになっているのに、「ペンを握る筆者の手は、まるで生きものごとく勝手に動き、」とあり、自分の手のことを「筆者の手は」と表現するだろうか?1994年版では、本人が書いたことになっているのに「大川隆法本の愛読書が、」とあり、自分の本のことを「大川隆法本」と表現するだろうか?
本人ではなく、ゴーストライターがはしがきを書いていたとしても、読み返してみて不自然ではない文章に書きなおすのが普通だ。もし、不自然なままに、わざとしているのだとすると、何が目的か?注意深く読書する人を発見し、幸福の科学に入れないようにするのが目的だろう。要するに、幸福の科学というのは、細かい矛盾には気付かず騙されている人と、このような手法を知っている騙す人の集まりであるのかもしれない。
✴️幸福の科学は、初期の頃、生長の家の谷口雅春さんをタイトルに入れた本をたくさん出版している。
✴️幸福の科学の教えに、生長の家の谷口雅春さんの教えを多く真似している。教えだけでなく大学も真似した。
谷口清超:東京大学
谷口雅宣:青山学院大学
大川隆法:東京大学
大川宏洋:青山学院大学
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